松本義峯・松本亜耶乃さんに何が?田園調布で無理心中

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松本義峯の画像10月17日午後、高級住宅街として知られる東京都大田区田園調布の住宅で、病院の理事長をしている75歳の男性と、年齢が45歳離れた30歳の妻が死体となって発見されました。

亡くなったのは、横浜桐峰会病院で理事長および院長を務めていた松本義峯さん(75)と、その妻の松本亜耶乃さん(30)です。

横浜桐峰会病院=よこはまとうほうかいびょういん
松本義峯=まつもと よしたか
松本亜耶乃=まつもと あやの

松本義峯さんの次女(36)が、病院に出勤してこない父親のことを心配し、警備会社に連絡したことで事件が発覚しました。

2人は自宅寝室のベッドの上で死亡しており、松本亜耶乃さんは腹部や胸部などをライフルで撃たれたような痕跡、松本義峯さんは喉のあたりをライフルで撃たれたような痕跡があったということです。

なお、松本義峯さんはライフル銃を抱えた状態で、銃口が頭部付近にあったとのこと。

警視庁では、松本義峯さんが松本亜耶乃さんをライフル銃で殺害したあとに自身を撃って自殺した無理心中とみて捜査を進めていますが、遺書などは見つかっておらず、現時点で松本義峯さんが無理心中を図った動機は分かっていません。

警視庁は容疑者死亡のまま殺人容疑で捜索令状を取り、10月18日朝から松本義峯さんの自宅を現場検証するなどしています。

無理心中の現場の様子や横浜桐峰会病院についての詳細はこちら。

松本亜耶乃さんを知らない人が多数

近隣住民の方などの話によると、松本義峯さんが現場の住宅に引っ越してきたのは、14年~15年くらい前の2000年頃の話。しかしほとんど住んでいるような様子はなく、近所付き合いも全くと言っていいほど無かったといいます。

また、松本義峯さんが松本亜耶乃さんと結婚していたことを知らない人ばかりで、いつ結婚して、いつ亜耶乃さんが田園調布の住宅に引っ越してきたのか、誰も知らないということです。

報道においても、松本義峯さんは亡くなっているものの殺人事件の容疑者でもあるためか早期に顔写真が公開されましたが、松本亜耶乃さんについては写真画像などは公開されず氏名のみの公表となっています。

松本義峯さんが担当する患者
「院長先生とスーパーとかでもお会いするんですけど、まさか再婚されてるって知らなかった。で、歳の差が45も離れてるので、『院長先生 結婚されてたんだ』と思って」

松本義峯さん関係者や近隣住民の話

現場の住宅では以前、画家の東郷青児さんが住んでいたとのこと。

近所の住民
「いつも人が住んでいらっしゃるのか分からないようなお宅」
「この家には以前、画家の東郷青児さんが住んでいた。松本義峯さんは東郷青児さんの絵が好きで、それでここを買って、コレクションをここの家に並べるんだ。って言って東郷さんから買ったみたい」

隣の家に住む住人
「おうちの中に電気がついているのは見たことがない。姿も見たことない。お庭にね、植木をいっぱい植えてる。敷地内が中が見えないようにしてる」

松本義峯さんが担当する患者
「トランペットが趣味で、プロ並みに上手で、刑務所訪問などもしていたみたい」

松本義峯さんについて

松本義峯さんは横浜市瀬谷区瀬谷で横浜桐峰会病院という病院を経営する一方で、プライベートでは「Dr.松本&ストレンジャーズ」というジャズグループを結成していました。

松本義峯さんはこのジャズグループでリーダーをしており、トランペットやハーモニカを担当していたとのこと。

松本義峯がトランペットを吹く画像

松本亜耶乃の夫・松本義峯の画像

また松本義峯さんは、自身が経営する横浜桐峰会病院のWebサイトでは、以下のように挨拶されていました。

松本理事長のご挨拶
その設立は 昭和46年 6月 1日 瀬谷区に医療法人桐峰会を設立し横浜桐峰会病院を開設し以後平成17年7月27日に至る今日迄24時間年中無休で救急指定病院として活動しています。一日も休まずと言う事は大変なことでした。
私の写真は2年半前のものでこのときは87キロでした。
今は68キロです。朝飯だけ食べないようにしています。
運動はしていません。

好きな言葉
己こそ己の寄る辺、己をおきて誰に寄る辺ぞ良く整えし己こそ誠得難き寄る辺なり。

松本義峯さん自身や横浜桐峰会病院について、さらに詳しい紹介も掲載されていました。

紹介

1971年6月、横浜市瀬谷区橋戸に閉院となった産婦人科医院をお借りして外科の病院を開設したのが私であります。
分娩台を外科の手術用に改造して、とにかく開業当時から膵臓癌、胃癌、小児外科、交通外傷、脾臓摘出、脳内血腫など、頭から足の先までなんでも手術を行う、第一線の救急外科診療所として発足いたしました。
分娩台が手術台に変わったわけですから、非常に不安定であり、12時間も手術が続くと腰が痛み、手術中にしゃがみこむようなこともありました。

手術台がしっかりしていないと身体をもたれかけることもできないのでとても腰が疲れるのです。
手術が10時間も続いて腰が痛くなり、途中で座り込んだこともありました。
夏の暑い最中、冷房が効かず、窓にすだれをかけた手術室のドアを開けると、すぐ外は通りに面していて、買い物帰りの奥様達が大根や人参を籠に下げて井戸端会議をしながら帰宅する姿を手術室からのぞき見たものです。
一陣の風が吹くと、塗装はしてある道路から砂埃が手術室に舞い込むこともありました。
その当時膵臓癌の手術をした患者さんが90歳を過ぎて遂にお亡くなりになったとか、胃癌で胃を全摘した横浜市中区の患者様が93歳で天寿を全うしたなど、私が手術をおこなった患者様が、手術後元気になってからも、何十年と横浜桐峰会病院に通い続けてこられ、最後も私が看取るというケースは数えきれません。

これが開業以来40年近い歴史の賜物であります。
開設当時は、瀬谷区、旭区、保土ヶ谷区、そして北里大学病院もなかった環境でしたので、大和市、綾瀬市、時には相模原からも手術の患者様が来てくださり、今までに手術をした患者様は3万人を超えています。
つまりこの37年間で3万件以上の手術をしたことになります。
現在もこの開設者の私が、院長としてそのまま手術を続けています。
この間、横浜桐峰会病院は8回の増設工事を行いました。
私の人生を過ごすくつろぎの応接間として、最後の増築も手術室だけは立派にしました。
地下の1階と2階を全部占拠して、民間病院にしては心臓の手術もできる驚くほど立派な手術室です。
手術室を立てるときには、私の死に場所と決めていました。
過去40年間に、横浜桐峰会病院と共に診療を続けてきた地域の病院も規模を縮小したり、倒産して閉院した病院も沢山あります。
昔は、数多くの手術を行っていた外科の診療所も今は手術をおこなっていません。
また横浜桐峰会病院よりも大きな規模だった座間の病院も、横須賀の病院も、大和の病院も、沢山の病院が閉鎖或いは手術をやめて規模を縮小しました。
しかしながら、横浜桐峰会病院は、開設以来40年近くも同じペースで歩んでいます。
近くには聖マリアンナ医科大学、横浜市西部病院、大和の徳洲会病院、旭区の旭総合中央病院、泉区の国際親善総合病院、開設当時は無かった北里大学病院、国立病院機構横浜医療センターなど立派な病院が目白押しに建ちました。

でも、横浜桐峰会病院も潰れることなく、評判の良し悪しは別としてとにかく存続しております。 消えないで存在し続けてきたことが病院としての一つの証であります。
社会に埋もれることなく、続いてこられたことはやはり何らかの形で社会に役立ってきたから、37年間も変わらぬペースで生きてこられたのだと思います。
横浜桐峰会病院に勤務したドクターも、入れ替わり立ち替わりで1,000名程、看護師となればさらに多く、患者様は総勢で何十万名になります。
院長が手術させていただいた患者様ははっきり記録に残っていて、3万人以上、ひとつひとつ数え上げてゆくときりがありません。
甲子園で優勝監督がインタビューの中で良く言っております。
「とにかく、自然体でできる事を自分が一生懸命信じてやっていくしかないと思います。だから淡々と続けてきたのです。」と答えていますが、横浜桐峰会病院もまさしくこの心境です。
存在し続けてこられたことが確かなことなのです。
このことをバネにして、地域の皆様に喜んでいただける存在でありたいと考えております。

横浜桐峰会病院のモットーは「やわらかな医療」です。
「やわらかな」とは患者様にきつい事も言わず、病院の理屈を押しつけもせずさりとて患者様のわがままも受け入れず、双方が納得して患者様の望む医療をできるだけ誠意を持って応じてゆくという、淡々とした気持ちで医療を行ってゆくことだと思っています。
院長1人の力だけで、できるものではありません。
職員、地域の皆様のお力も借りて自分の信じる医療を続けてゆきたいと願っております。
皆さんのお力を貸してください。

横浜桐峰会病院 院長 松本 義峯

無理心中現場(大田区田園調布3丁目12-5)場所の地図

松本義峯さんと松本亜耶乃さんが住んでいた住宅の建物外観

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  1. 旧姓は鈴木?

    鈴木亜耶乃さんっていう方がFacebookでヒットするのですが、院長の奥さんの松本亜耶乃という女性は、この人ではないでしょうか。
    周囲に結婚していたことを秘密にしていたようですし、旧姓のまま利用するのが自然かと思うのですが。

    • 匿名

      そうです。鈴木あやのでした。彼女は西川口に住んでいました。
      その時私と猫を通じて仲良くなり食事買い物、お互いの家を行き来し夜は私とのカラオケに付き合い男友達が一緒の時でもいつでも私しか見ていず私に恋していました。後でわかったことですが彼女は精神分裂症でした
      私から預かった猫を噓ついて三匹も捨てていました。二人で台湾旅行

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